名前 中野 太久二(なかの たくじ)
会社名 DI-T's株式会社(ディーティーズ (カ )
役職 代表取締役 社長
事業所名 DI-T's FP(ファイナンシャルプランニング)オフィス
役職 マスターコンシェルジュ
有資格 2級ファイナンシャルプランニング技能士 AFP、宅地建物取引士
職務経歴 1983年4月 ヤマハ発動機株式会社 入社
2011年9月 DI-T's株式会社 設立
2020年9月末日 ヤマハ発動機株式会社 定年退職
実績例👉 https://ci.nii.ac.jp/naid/10002249020/
2021年4月10日 DI-T’s FPオフィス 開所
小さなからだに悩んだ子供時代
父は自衛官、母は事務員の家庭の二男として静岡県浜松市に生まれました。
船越小学校時代はからだが小さく、朝礼ではいつも一番前。
逆上がりができず、5年生まで自転車にも乗れず、いつも友人たちには走ったほうが速いと言いながら遊びに行っていました。
実は、そうとうに身体的コンプレックスが強かったのです。
逆上がりを練習しても一向に出来るようにならないし、自転車も父親の休日の早朝に公園で練習をしてきたのに、結局、補助輪を外せなかったのです。
自分を信用して、一歩踏み出す勇気が出てこなかった。
体が小さいという自覚があるがゆえに、こんなもんかという諦めがあったのかもしれません。
でも、運動することは、ずっと好きだったので、八幡中学校時代は、バスケットボール部に入部し、何とか身長を伸ばそうと真剣に部活動に参加しました。
その成果は目覚ましく、ちょうど成長期と重なったおかげで、一年間で10cm以上の伸長を手に入れたときは、本当にうれしかった
「朝礼の先頭に立つポジションは明け渡したぜ。」 ほくそ笑んでいたのを覚えています。
兄は浜松市で一番賢い高校に進学していました。
母は、父親を早くに戦争で亡くしたため、母子家庭で育ってきた。数字には相当強く、そろばんの大会で優勝した賞状を、時折見せてくれました。しかし、高校進学も諦めざるを得ない経済状況だったため、中学を卒業してすぐに働き始めていました。
そんな背景からなのか、子供たちには、出来るだけレベルの高い高校に行ってほしいという願望があったようだった。母は、ずっと事務員として働き続けてくれていた。今で言う「バリキャリ」でした。決して教育ママではなかったが、毎日勉強する時間をしっかりとることだけは習慣化させてくれた。
大学進学を意識したころ、中学校で三者面談があって、担任の先生から「中野の進学先は、上から二番目のランクの浜松西高ですね。」と勧められました。
まあ、成績がそこそこでしたから、仕方ないと。
学年で今ひとつ飛び抜けることができず、兄と同じ高校に進めない自分に悔しい思いは感じていました。
一方で、あまり深く考えることはないまま、先生の指導方針に従っている自分がいました。
「先生に言われたからなー。まあ、いいか。」いわゆる成り行きに任せていました。
身体的劣等感と新体験
浜松西高に入学してすぐ、高校でもバスケットボールをやろうかなと体育館を見学しにいきました。
しかし、先輩たちの体格を見た瞬間、早々に諦めることになります。
西高は、静岡県下で有名な強豪校であることを後から知りました。
それじゃあ、全く違うことをやってみようと思い、クラシックギター部の門をたたきました。幼少のころ、父親の趣味の尺八教室に付き合わされ、その流れで生田流の琴の教室に通っていたのです。ストリングスの響きの心地よさが、脳裏に染みついていたのだろうか、先輩の「アルハンブラの思い出」の演奏に鳥肌が立ち、すっかりそのテクニックとストリングスの響きに魅了されてしまったのです。
だけど、現実は厳しかった。演奏は簡単ではなかったのです。
持ち前の粘りで、練習は重ねたけど、年1回の発表会のタイミングですらまともな演奏が出来ず、最後は、幽霊部員のようになってしまった。
指の開く角度が足りない、指の長さが足りない、など身体的なハードルは、練習だけでは超えられないと思ってしまった。
特に薬指は十分に弦を押さえられないため、その弦から出る雑音に悲しくなってしまいました。
一年生の冬、今ではなぜだか理由はわからないが、親にスキー体験教室に行きたいと頼み込んだ。もちろん、雪の降らない浜松市で育ったので、スキーはやったことはない、ましてや、その後も続けるとは思ってもいなかった。
あくまで体験旅行だと考えていました。
当然、家にお金はないので、スキーの板、ブーツ、ストックは借り物。ウエアは適当に、後々も使える厚手の洋服を購入した。防寒機能、防水機能が十分なモノとはいえなませんでした。
案の定、ゲレンデでは滑って転んでの繰り返し、さらに天候も悪化してきて、吹雪になり、すっかりびしょ濡れになってしまったのです。まったく寒くて凍えて気分は、すっかり遭難者でした。
そんな過酷な体験だったのに、この出会ってしまった「雪の世界」、「スキーの楽しさ」が忘れられなかったのです。
将来を決めることになる出会いになりました。
将来を決めることになるスキー場での出会い
大学進学を真剣に考えはじめたころ、兄はすでに防衛大学校に進学していました。
自分は将来の進む方向に強い意志を持っていなかったこともあり、父親の背中をみて育ち、漠然と自衛官になるものだと思って、兄の後を追い防衛大学校を受験しました。
父は、航空自衛官、兄は陸上自衛官になりたいと言っていたので、じゃあ自分は、海上自衛官になると。
その結果は、あえなく不合格でした。
その時すでに、視力が0.3になってしまっていました。この身体的機能が選考において圧倒的に不利だった。と後から知りました。
身体検査の前、半年を掛けて視力回復センターにかよい、必死で視力の低下を抑えようと努力はしてきたのに。
このころから「人生を自分で選択してきたのか」、様々な結果に対して「持って生まれた身体のせいにしていないか」ということを考えるようになっていたのです。
そして、この思いが、ゆくゆく大きな気付きを得ることになったのです。
その後なんとか、武蔵工業大学、機械工学科に進学できました。
最初の芽生えた意思は「とりあえず東京に行ってみたい。」というレベルの決意決定でした。
大学生時代は、高校時代のスキー体験が忘れられず、基礎スキー部に在籍し、雪がある時期はほとんどスキー場にいました。
このスキー部には、基礎スキーという滑走技術、滑走スタイルを追求する方針があり、周りと比べ、うまく滑れないことをはっきりと認識させて、指導していくというやり方だったのです。
まだ、ハンディのビデオが普及する前でしたので動画映像によって客観的に比較することから、自分の技量がどのくらい劣っているのかを知ることは難しく、先輩の眼による指導以外に情報は得られなかった。
今でも、何かを演じて評価を受けることが苦手です。
どうして上手く出来ないのだろう?
しかし、自分自身の目標に向けて練習することは何にもまして楽しい時間でした。まずは、お尻の穴を締めて、スネの筋肉を緊張させて、足の裏のどの位置に重心があるのかを意識して、ターンのきっかけを作って・・・自分との会話が必要な練習でした。
身体機能を拡張する出会い
スキー部の合宿先のスキー場で出会ったスノーモビルにいつしか魅せられていました。
スキーは、ゲレンデ、オフピステを滑降することが醍醐味だった一方で、スノーモビルを使うと、自ら山を駆け上がることが出来ました。
雪の多い地域では郵便配達にも使われていると知って「困っている人を助ける力もあるなんて魅力的な商品だ!」と大きなインパクトを受けました。
「自分の身体能力をアップ、拡張してくれるマシン」との出会いでした。
自分では、なかなか到達できない領域へ、あっという間に連れて行ってくれる。大きな魅力を感じていました。
生まれて初めて「こんな商品を開発してみたい!」と強く思うようになっていました。
大学4年生になって、日本国内では、唯一、ヤマハ発動機株式会社がスノーモビルの生産、販売をしていることを知りました。幸い本社の所在地は、浜松市のお隣の磐田市でした。母の面倒も見れる環境になるので、躊躇することなく就職活動をしました。
そして、バブル前夜のタイミングで運よく入社がかなったのです。
配属の面接では「スノーモビルの開発をしたい」と、初めて他人に強い思いを伝えることができ、幸運にもスノーモビルの開発部門への配属を獲得することができました。
自分の意思を明確に伝え獲得した大きな成果でした。
しかも、自分の身体能力をアップグレードできて、大好きな雪の世界でまだ誰も踏み入れていない新雪の中を縦横無尽に走れることはかえがたい魅力だったのです。
科学的思考との出会い
スノーモビル事業は、日本国内で製造し、海外で販売する事業構造により、為替が円高へ変動していった1990年代は、事業成績を大きく圧迫する結果を招いていました。
そのため、よい製品が開発できても、十分に事業に貢献する成果を獲得できない、負のジレンマに陥っていたんです。
会社の中堅のレベルになったころ、会社でのこの事業のポジションについて見つめる機会を得ました。長期計画を作成するタイミングでした。
どう数字を集めても、整理しても、論理的には、今のままでは、拡大は望めず、会社にとってはプラマイゼロの冬季の商品を維持するだけの存在になり、地球温暖化が叫ばれ始めていたため、将来的に縮小していく事業としてのビジョンしか見えてきませんでした。
その環境でも成果を生み出すため、職種領域をまたいで、プロセスの最初から最後までの全体を見つめ、ボトルネックを探り、解決するという思考をするようになりました。そのスキルにより、つぎつぎと課題を解決することで全体のプロセスの成果を上げ続けることができました。
さらに、商品開発プロジェクトリーダーという肩書をいただき、市場開拓、市場調査、事前調査、商品企画、商品構想、開発計画、開発予算管理、開発計画策定、進捗管理、商品プレゼンテーション、品質保証、サービスとほとんどすべての工程に関与し、チームメンバーと一緒に目標設定、課題解決をしながら全体のプロセスの成果を最大化することに挑戦してきました。
この行動に、制約理論(TOC)※が大きな効果をもたらしてくれました。
科学的思考をもとにしているので、成果に再現性があることが大きな魅力でした。
再現性があるので、その効果を拡大させることも可能だったのです。
つまり、スケールアップに対応できるし、対象にも制限はなかったのです。
身体的な能力をアップグレードする効果が得られることを実感していました。
変化に柔軟に生き残る
順調にこのまま定年まで走り切れるかなと思った矢先に、リーマンショックに出くわしました。
スノーモビル事業が不安定になり、もし、今の職を失ったらどうしようと思うようになってしまったのです。
事業が衰退しても最後まで居残る思いを持ってはいましたが、いざ鎌倉、最悪の事態の想定をしておくことも当然に必要なことでした。
その頃から、複数の収入源を持つにはどうすればよいのだろうと情報収集するようになったのです。
まず取り掛かったのは、自分の持っている不用品をオークションで販売することでした。
思いのほかスムースに販売できたので、思い切って古物商の認可を取得し、古物市場でのセリによる仕入れを行いネットオークションで販売するルートを作りました。
しかし売り上げ規模を上げるには、大量の仕入れ、販売を行う必要があり、梱包、出荷に人手がかかってしまうことに直面してしまったのです。
このやり方では、限界があると気づき断念しました。
同時に転売ビジネスは、本当にやりたい事なのか?と自問がはじまっていました。
「副収入を得る手段」であることは間違いなのですが。
一人でやりきるビジネスをイメージしていたので、サイズ感にアンマッチが起こっていたのです。
40歳代後半になると、環境問題への対応の使命を帯びたスノーモビルの開発が終了し、北米、欧州の既存の市場への商品投入が完了したころ、さらに新規の市場開拓、拡大を求められました。
雪が降り、冬でも人がリクレーションを楽しむ地域を選んでいくと必然と北半球に最大の大陸をもつロシアが次の拡大市場であるとわかりました。
それまでも、北欧モデルをロシア市場で販売はしていましたが、ロシア特有の条件に合致する仕様に現地で対応するのはかなり重たい仕事になることは想像できていました。
そこで、これからのロシア市場拡大の予測のもとに、ロシア専用モデルの開発を任せてもらうことを進言し現地に飛び込みました。
やはり市場を知らないことには、ロシア環境への最適化を図ることはできません。
そこで、既存のモデルを使い、ロシア市場で走行耐久を実施し、既存モデルのロシア市場適応力を評価することから始めました。
耐久テストをロシアで実施することは、評価自体よりも現地の条件の確認、設備の対応、滞在期間の安全性確保、協力体制の構築など多くの業務をこなしていく必要がありました。
そんな業務を行っている中、ロシアを訪問しロシア人とコミュニケーションする機会が増えていきました。
ロシアの友人たちと会話していて、日本の伝統文化の技術と現代的デザインをコラボレーションした商材開発を行えば、ロシアに販売できるかもしれないということに気づき始めます。
まさに、ロシア経済が復活し、日本ブームが起きていたころです。
「グラフィックデザイナーx書道家家x西陣織物メーカーⅹ額装技士」の協業体制を繋ぎ、2011年にDI-T's株式会社を設立、起業したのです。
アメリカ、カナダ、スウェーデン、ロシアに日本文化を拡大するための販路を求め、足を使った泥臭い営業活動もやってきました。
しかし、十分な売り上げを継続することはかなわなかったのです。
コンセプト、売るもの、物作り、商流、物流は整えても、お客様が見つからなければ意味がありません。物作りの最中に、ロシア人とコミュニュケーションしているなかで、薄々感じていました。日本の物作りの凄さをアピールしても「凄さ」は理解してくれるが「欲しい」になっていないということを。
ほんとの気づき
これから30年どうしていこうかなと漠然の意識し始めたころ、会社で開催された「50歳、今後のライフプランセミナー」の開催案内があり、夫婦で参加しました。
いきなり「定年再雇用制度開始」と言われた、将来設計しましょう!と投げかけられました。
一体何から考えればいいのやら、セミナーを受けてもピンとこない。
正直何から考えたらいいのかまったくわかりません。
今まであまり真剣に「お金」、「今後」、「老後」について考えてこなかった。右脳、感覚派なのだろうか?
家族とともに「今」を生きるのが精一杯だったともいえるのだが、今までなんとかなってきたからきっとこれからも「何とかなる」と漠然と思っていました。
自分の周りに変化が
職場でも「働き方改革」の名のもと、これからはリモートワーク、ジョブ型業務へ変化していくのかと盛んに会話されていました。
なんとかリモート会議には慣れてはきたけど、いままでだったら会議で即断即決の指示が出来たのに、会話の順番を待っているWeb会議だとタイミングが分からなくて、結局発言しないまま終わってしまうことも度々あることに気がつきました。
それでもプロジェクトが回っているようだ・・・
「俺って会社で何を担っているのだろう?」と不安になってきました。
会社の環境は急激に悪化している?
そんな時会社から「経費削減、ボーナスカット、早期退職者を募集する。」社内ニュースが流れました。
すこし年齢が上の先輩たちは、どの選択肢にメリットがあるのかの会話をしているようでした。
自己理由で退職するのと、会社理由で退職するのでは、失業保険のもらい方が変わるらしい。ちょっと調べてみるかな?
いや! もっと会社の状況は深刻なのかもしれない。「もしかして俺ってリストラ対象者に挙げられるのか?」
そんな考えが頭をよぎりました。
今は働き方の手段がたくさんあるようだ
ある朝、若手社員が副業の話で盛り上がっていました。
「今はオンラインでビジネスをやれるスキルがないと生きていけないよな!」
「SNSは情報交換の場じゃなくて、ビジネスを拡大する場になっているよ。」
「ダイレクト・レスポンス・マーケティングと自動化のシステムをつくれば、遊んで暮らせるみたいだぞ。」
「イーベイを使って、セドリをすると儲かるみたい。」
「任〇堂〇イッチは、転売ヤーが横行して予約も抽選になっているって。売値も5万円を超えているみたいだね。それで儲かるのかな?」
「オークションで中古品を販売して稼ぐとか聞いたことあるけど?」
・・・どれも、言葉は聞いたことがあるが、どこで儲かるのか。そもそも、仕入れや集客はどうしているのか?
「副業」といっても、どのくらい時間がとられるのか、どのくらいの利益があがるのか。
なにをすればいいのか?
「誰か教えて!」
早期退職、定年退職、雇用延長、定年延長?
会社の先輩が、60歳の定年退職のタイミングで会社を辞める。と聞いていたのです。
65歳まで雇用延長の選択ができるのに、どうやって「決めた」のだろう?
あの人は仕事も計画的だったから、きっと綿密な計画を作っていたに違いない。
あんなにバリバリ仕事しながら、どんな情報を収集していたのだろうか?
そもそも今後何していくのか。
「いつか聞いてみよう。」
働くことのプレッシャー
「えっ、俺って70歳まで働きバチなの?」
先日のセミナーは、50歳でこれから60歳までの10年間の会社での働き方のアドバイスを受けました。
しかし今は、さらに10年、会社にしばられるようになりそうだ。
「それでいいのか?」
「体はもつのか?」
「70歳まで会社にいて、その後が老後だといわれて、なにができるの?」
「そもそも俺の人生だし、やりたいことってあったよね!」
いままで家族のためと思って、いろいろガマンしてきたことがあると気づきました。
ある休日、家族が買い物に出かけ、一人の時間がとれました。
俺の悩みの種はなんなのか、なにが課題で、それはどのくらい深刻なのか・・・
パソコンに向かってはみたが、検索窓に打ち込む言葉が見つからない。
以前なら、飲み屋で先輩に気軽に聞けたのにな。
そういえばすでにあの人は退社してしまったんだ。
挨拶もろくに出来ぬままであった。
あらためて働き方の情報に気づいた
最近Facebook、Instagramの広告で、副業から個人事業主になるとか、株式会社を作って税金対策するとか、
それこそ「オンラインビジネスのノウハウを売ります。」とか「コミュニティに参加しませんか?」とかいうのをよく見るようになっていました。
どれか、メルマガに登録して勉強してみるか。
気づかぬうちに、受信箱にはいろんなところから頻繁にメールが来るようになり、SNSからも似たような広告がたくさん出てくるようになりました。
「うざい、こんなの読んでる時間があるか!全部迷惑メール行きだ!」
やっぱり、どうすればいいのかは、わからないままだったのです。
問題は突然に
そんな時、訃報が舞い込んだ。義父が逝去したのです。92歳大往生でした。
すぐに問題が噴出しました。農業をやってきていたが継ぐ人がいない。
随分前から、この先どうするのか考えた方が良い。と会話したこともあったが聞く耳はもっていなかったのです。
だれが農業を継ぐのか、廃業するのか、資産はどうなっているのか、相続は?対象者は?現金は?
預金は?通帳はどこに?税理士の知り合いはいる?費用ってわかる?それより、通夜、葬式はだれが仕切るの?
問題は、突然に、次々と起きるものです。
終の棲家ってどうしよう
ある夏、大型台風が、何年ぶりかで、我が家を直撃しました。
台風一過の良い天気の日、家に損害はないか?久しぶりに一周見て回ったのです。
「あれ?あんなところにシミがある?」
「軒の塗装がはがれているな、隙間もあるように見えるけど」
「築何年だったっけ? ・・・30年になるか。」
「リフォームする? いやマンションに住み替えるか?」
「ここは便利がいいから建て替えようか?」「借地のまま貸してくれるのか?」
「お金はあるの?」
何気ない娘の言葉に、答えをもっていないことに気づきました。
「俺ってノープランでなんとかなってきただけなのか?」
急に、何とも言えない不安な気持ちが、こころに侵入してきました。
家族の将来
娘は、高校生と中学生、将来の目指す仕事の話を聞いたことはありませんでした。
夢は? 憧れは? 知らない。この先どこへ進むのだろうか。
娘だし、いずれは結婚して、家を出ていくのだろうなあ。
いや、今は結婚しない選択肢もあるみたいだから、家に居続けるのかもしれない。
老朽化が見え始めた家の方向性は、子供の動向次第か?
まずは家をどうするかだけど、やっぱり自分がこの先どう生きるかを決めないと何も始まらないと考えるようになりました。
老後のキーワードに気づいてから、少し調べてみました。
年金制度が破綻する?自分は、年金はもらえそうだが、制度が変わることを見つけたのです。
老後に自分のやりたい事をイメージできても、自分には、その資金はあるのだろうか。
せっかく保険金を上納してきたのだから、一番効率よく年金を受け取りたいな。と思うようになりました。
はたと、「自分は、何歳まで生きるのだろう?」と脳裏をよぎります。
平均寿命だと88歳か、でも父は、70歳で亡くなったからな。自分の寿命もその位かな。
自分の終末を考え始めた時、初めて「終活しないといけないかな?」
それが、父親としての最後の役目だなと深く納得した、58歳の秋でした。
結局、心配事はたくさんあるけど、何をしたらいいのか何もわかっていなかったのです。
価値の視点の変化と取った行動
商品開発プロジェクトのマネージメントをしていく中で、後輩の育成のみならず、役職定年を迎えた先輩の人材活用の経験から、「モノ」ではなく、「人」のライフプランのサポートに関心を持つようになっていきました。
きっかけは、両親の死去でした。
自分が会社に入社したころ、両親は別居していました。
突然に叔父から「実はお前の親父さんは、がんで入院している。そろそろ厳しいだろうから、一度会っておけ」と。
別居したこと、新しい家庭があること、腹違いの妹が生まれていたこと。
なんとなく知ってはいたが実際の関わりは、なにもなかったので、特に感情を揺り動かされることはありませんでした。
病室であった人には「かつて自転車の練習に付き合ってくれた父」の面影はなく、他人を見ているようでした。
悲しみすら感じてはいなかったのです。
ほどなくすると、訃報が届き、葬儀へ出席を求められました。
兄はそんな父親を許してはいなかったが、一緒に出席することになりました。
遺影の笑顔は「かつての父」でした。
「棺を支えている僕たち兄弟は、外からどんな風に見えているのだろうか?」
そのとき母は静かに家にいました。
2年後、母も旅立っていきました。二人とも70歳の若さで逝ってしまったのです。
父の葬儀の後、しばらくして「相続放棄の手続き」の依頼を受けました。
父の残したささやかな貯金を腹違いの妹に渡すためです。
相続の権利を主張する意思もなかったので、淡々と手続きのための書類を準備して渡しましたが
兄は、その手続きすら面倒がりました。
どちらの気持ちもよくわかっていたので間を取り持ちました。
「自分で選択した人生でも、死後にも多くの人々をその人生に巻き込んでいくのだ」と。
死生観とともに、自分の人生をどう歩んで行って、どう納めていくか、現実的に、深くお金のことを考えるようになっていきました。
これから30年、どうやって暮らしていけばいいのか。納めていけばいいのだろうか。
定年退職を考え始めた時、自分の経験値を生かして、働きがいのある働き方で、
充実した人生を送れるようにしたいと思うようになりました。
そんな時、ファイナンシャルプランナー技能士資格があることを知ったのです。
失業した場合の保険として、不況にも強いといわれていた宅地建物取引士の資格を
35歳の時、50歳の時の二度の挑戦で取得していました。
調べてみるとファイナンシャルプランナーは、宅建士との親和性も高いとわかったため、試験に挑戦することを決めました。
59歳の夏のことでした。
もしも、あなたに毎月50万円の副収入があったらどのように暮らしていくか、の選択肢には大きな変化が生まれるのではないでしょうか?そこには「何のために」という目的地がわかっていることが大切でしょう。
過去の物販、アフェリエイトなどのビジネスの経験を踏まえて、やはり直接お客様が笑顔になることが見えるような働きがいのある働き方をしたいと強く思うようになっていました。
わたしは自分に出来ることを振り返り、エンジニアの知見と経験をもとに科学的思考、制約理論(TOC)を取り入れた、課題設定、解決手法がライフプランに応用できることを見つけました。
問題、課題を明確にする前に、起きてしまったことについて理由を知らなくてはいけません。
また、イヤなことが起きるのを防ぎたい、イヤな予感がするときに、その原因と結果の関係も見つけるやり方があります。
その問題を解決するとどう変わるのか?を見える化する手法があります。
ものごとはそもそもシンプルである、人はもともと善良である、Win-Winは常に可能である。という信念のもと考えることができます。
さらには、問題が対立してしまうことが往々にあります。
その対立を解消する方法、問題解決の突破口を見つける手法があります。
それらを踏まえて、夢を叶えるアンビシャス・ターゲットツリーと言われる
目標達成のための行動まで明確に出来るようになります。
この先の問題はまだ起きていないのですから、
今から解決策を実行するシナリオを持てていたら安心して活き活きと暮らしていけませんか?!
わたしはさらに制約理論(TOC)を深く学び、それを応用することによる新しいライフプランの作成フローにたどり着きました。現在も日々開発を継続しています。
同時に、お金を働かせる、不労所得を獲得する方法を模索する過程で、株式投資、投資信託、不動産投資、外貨積立の知識も獲得し、それを実行できる手段を整えています。
さらに、寿命が長くなったことから必ず発生する、相続や資産承継の課題をスムースに解決するためのチーム体制も準備できています。
老後のお金の不安がなく「好きなことはやれる」を実現しながら安心して活き活きと暮らすための知恵、知識を体系化して、皆様と共有して、この手法をさらに高めて、社会に貢献していきたいと考えるようになったのです。
DI-T’sファイナンシャル・プランニングオフィスの「オーダーメイド・ライフシナリオ」に取り組んだお客様は、もやもやした将来の不安の原因と結果が明確になり、現状のお金の状況を数字で把握した上で、その解決手段が見つけられ、将来の夢を叶える計画をご自身でコントロールして実行できるようになりました。
これから歩く道、その方向と夢を叶えるまでの距離がわかり、課題解決する手段に前向きに取組めるようになったことで真の安心を得たようです。
ともかく「わくわくする」と言っていただけたことが最高の喜びです。